【「定家」の雨とエロス 松岡心平】
「定家」は、金春禅竹の代表作であり、式子内親王の墓に、死後も式子を愛してやまない藤原定家の執心が、定家葛となってからみつく、という暗く執念深い能である。
「山より出づる北時雨、く、行方や定めなかるらん」というワキ僧の印象的な謡で始まる「定家」にあって、「雨」は全曲を貫くキー・イメージとなっている。
その雨は、定家葛をはびこらせる生命力の源であると同時に、この曲に冷え冷えとした蝕感をもたらし、恋の仕掛けを暗示するかと思えば、『法華経』による救済を呼び寄せたりもする。
ワキ僧が都を訪れ、冬枯れの梢に紅葉が残る夕暮れの景色を嘆賞しているところへ、にわかに時雨が降りかかる。僧が、かつて藤原定家が建てた時雨亭で雨宿りすると、時雨を追うようにして、式子内親王の化身(前シテ)があらわれる。
時雨とは、どうやら式子内親王の精魂のようなのだ。
夕暮れ時の雨には、中世の人々がこれこそ「幽玄」の極致と考え、思い浮かべる共通のイメージがある。
次のような中国の故事、『文選』(六世紀前半成立)の「高唐賦」の話である。
四川省の高唐という揚子江ぞいの名勝地に遊んだ楚の懐王が昼寝をしていると、夢の中に一人の夫人があらわれ、契りを交わした。婦人は巫山の神女と名のり、「せめて形見だけでも残していってくれ」と頼む王に、「巫山の南、高丘の崖にあって、朝には雲となり、夕べには雨となって王の前にあらわれましょう」と約束して、夢の中から消えた。次代の襄王が高唐に来て、巫山に独特の雲気が刻々と変化する様に感心し、なにかあるのかと臣下の宋玉という詩人に聞いたところ、宋玉は、先代の懐王と神女の夢の中の契りの話を語った。
楚王が夢中で契った優艶な美女が、高丘の崖に「朝の雲」となってあらわれ、「夕べの雨」となって降るという話だが、「朝の雲」「夕べの雨」は、じつは「定家」では、後シテ式子内親王の出の場面に直接引用されている。
そこへと至る後場冒頭のシーンは重要なので少し詳しく見てみよう。
後シテの式子内親王は、葛や引き廻しの幕におおわれた作り物の墓の中から、
夢かとよ闇のうつつの宇津の山
月にも辿る蔦の細道
という、『伊勢物語』をふまえた禅竹オリジナルと見られる劇中詠を謡いはじめる。
この歌の感覚は、折口信夫の『死者の書』で、大津皇子が石棺の中で、あの世から甦る、あの「したした」という言葉を含む叙述にきわめて近い。ともあれ、亡魂が石塔の中の冥土の闇から現世の光の中へ戻ってくる様を式子は自ら謡うのである。それは、宇津の山の蔦楓の茂る暗い細道(『伊勢物語』九段)を、月のわずかな光をたよりに歩むようにも、心もとない。それでも、亡者の意識はかすかながらも徐々に回復するのであった。
墓の中で、仮死状態から覚醒した式子の亡魂がまず思うことは、藤原定家との様々な恋愛シーン(「昔は松風蘿月にことばを交はし」)であり、様々な情事(「翠帳紅閨に枕を並べ、さまざまなりし情けの末」)である。しかし、やがて二人ともこの世から姿を消す。美しい愛や肉体の世界は消えてしまい(「花も紅葉もちりぢりに」)、その果てに、「朝の雲」があらわれ、「夕べの雨」が降るのである。
後シテ式子内親王は、特にこの「夕べの雨」を内にこめた強い息で長く引いて謡うことで、定家との忍ぶ恋の思い出や定家との情事の悦びの思い出に身を浸しながら、夕べの雨に自らを一体化させていくのだ。
そのような式子内親王の精魂が、前場冒頭のシーンでは、夕時雨となって、定家の時雨亭に降りこめていたのである。
逆に、藤原定家の執心は、植物の定家葛となって、式子の墓に幾重にもまといついていた。
このように、式子と定家が死後も水や植物によって触れ合い、粘着し、「互ひの苦しみ離れやらず、共に邪淫の妄執」に悩むのが、能「定家」の永劫回帰的な深く暗い恋の世界であった。
定家葛が式子内親王の墓石に幾重にもまとわりつく、という発想の源には、
秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸を
幾重も閉じよ蔦のもみぢ葉 (『新勅撰和歌集』三四五番)
といった、式子内親王の歌があるだろう。
しかし、金春禅竹の鋭敏な感性は、この歌の核心をしっかりと聴き分けていた。閉じ込められることにマゾヒスティックな喜びさえ感じる倒錯のかすかな響きを、そこに聴きとっていたのである。
その響きは、能において拡大され、「定家」の重要なテーマを構成する。
つまり、禅竹の「定家」にあって、定家葛とは、愛の喜びと苦しみの両義性の象徴なのである。定家葛に身を閉じられて身動きもとれない苦しみ、それは、死後も定家にずっと抱きすくめられている女の官能の喜びと裏腹のものだ。
そうでなければ、どうして式子が、最後の場面で、葛にからみつかれつつ、墓に帰り、幕に埋もれていくことがあるだろうか。
後場、ワキ僧の読誦する『法華経』「薬草喩品」の「一味の雨」により、まつわりついていた定家葛は、草木成仏のおかげで解けひろがり、式子内親王は、いったん、墓から出ることができた。そして式子は、僧に感謝して舞を舞うのだけれど、舞が終わると、その美しい容貌は次第に衰え、崩れ、ついには葛城の神のような醜悪な姿に変じてしまう。
『法華経』による業苦からの解放は、一方で、墓の中で定家に抱かれることでたえまなく注がれていた愛のエネルギーの欠乏によって、容貌の崩壊を式子にもたらすのである。
『法華経』による解放をとるか、それとも地獄の業苦を永劫にうけながらも、葛となった定家に抱きすくめられて美しい容貌でいられる墓の中をとるか。
式子は墓を選び取って、その中に自ら再び埋もれていくのである。
ただし、この選択は、単なる『法華経』の否定、ましてや仏教否定ではないだろう。
男女が合体している双身歓喜天像の世界、歓喜天信仰の世界が考えられるからである。禅竹は、『稲荷山参籠記』という自著で、若い頃からの歓喜天信仰を告白している。とすれば、禅竹は、『法華経』の世界観を越えたところに、密教的エロスの世界、すなわち男女のセックスを含む歓喜天信仰を置いていたのではないか。
そこでは、愛の成就こそが悟りであり、そうした世界観にも裏打ちされて、「定家」の最後の場面は創出されたのではないだろうか。
(東京大学名誉教授)