青山能 6月25日に向けて能「鵺」の解説! 「鵺」の亡霊、その哀傷は、まるで世阿弥そのもの! 先日、塩尻での公演のおり、歌人の馬場あき子さんと相席で道中2時間、たっぷりとお話しする機会を得ました。
『能楽史事件簿』で展開されている「鵺」のことや、歌人としての頼政の話、源氏物語記念年間での講演のことなど、うかがったお話はそれこそ一冊の本にまとめ上げたいほどの貴重なお話でした。
その時に特に強くおっしゃていたのは、世阿弥の時代のころ、いわゆる文化人は「ことば」に対してすごく敏感だったということです。
能の中で歌の一部が出てくると、その歌はだれが作ったどんな歌かとすぐに理解できるというのです。
世阿弥もそういった文化人を相手に、「鵺」の作品の中で歌の世界から自分の思いを語りかけた、そのことが『能楽史事件簿』に詳しく展開されています。
鵺の亡霊の登場 まず「鵺」が現れた最初のところの詞章を紹介します。
「悲しきかなや身は籠鳥(ろうちょう)、
心を知れば盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)、
ただ闇中(あんちゅう)に埋もれ木の、
さらば埋もれも果てずして、
亡心なにに残るらん。
浮き沈む、涙の波の空舟(うつほぶね)、
焦がれて堪へぬ古(いにしえ)を、
忍び果つべき暇ぞなき。」〈現代語訳 謡曲大観参照〉
(ああ、悲しいことだ。このような舟に押し入れられて、まるで籠の中に閉じ込められた鳥のようだ。
私のようなものは容易に仏道に入ることができず、
ただ埋木のように闇の中に埋もれて暮らすばかりなのだ。
いっそうのこと、すっかり埋もれてしまえば、まだよいのだが、
妄執の心だけが埋もれないで残っているのは、とても辛いことだ。
このようなうつほ舟に乗せれらて、涙ながら波間に浮き沈みして、
むかし恋しさ、悲しさに、
心の休まる時とてありはしない。)これが黒頭に「怪士(あやかし)」というとても怖いかををした面をつけ、おどろおどろとした姿の化け物が、心中を語っている言葉なのです。
これはとても化け物・鵺のこととは思えないですね、いかにも人間の悲しみです。
頼政の無念の心中でもあり、世阿弥の悲しみでもあるのです。
このところを謡っていると、鵺の亡霊であるはずなのに、自分は何者なのかまったくわからなくなってしまいます。
さて馬場あき子さんの登場です。
世阿弥はこの中で和歌の言葉を巧みに引用し、自分の思いを訴えているというのです。
「浮き沈む」『あかずして君を恋ひつる涙には うき沈みつつやせ渡りつる』 (紀貫之)
(あなたを飽くこともなく恋うるために涙を流す、その涙に浮いたり沈んだりしながら、身も心もやせ細ってあなたのことを思っている)
「忍び果つべき」『とがめつつ人知るともいかがせむ 忍びはつべき袂ならねば』 (西行)
(咎めながら人が自分の恋心を知ったとしても、もうかまわない、自分では忍びきることができない涙の袖を持っているのだから)
「焦がれて堪へぬ古(いにしえ)を」うつほ舟を漕ぐ、恋に焦がれるとうことを二重にかけている。
こんな恋心を歌う主人公はだれなのか、恐ろしい顔をした怪しい男が失恋の歌を歌っている、
不思議な世界です。
「埋もれ木の」『埋木の花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞかなしかりける』 (頼政辞世の句)
ここで頼政のことを出しているということです。
馬場さんの説明にはないのですが、世阿弥は息子の元雅が亡くなったとき、「夢跡一紙」という哀傷に満ちた文を残しているのですが、その中に次の歌を残しています。
『思いきや身は埋もれ木の残る世に 盛りの花の跡を見んとは』
『行くほどと思はざりせば老いの身の 涙の果てをいかで知らまし』
「鵺」の詞章に出てくる言葉がたくさんありますね。
これだけでも、世阿弥がこの「鵺」に対していかに思い込みが強いか、そのことがよくうかがえると思います。
〈続く〉