昨日、稽古能で「楊貴妃」を舞いました。
(「舞う」という言葉は使いたくないのですが、稽古能で勤めるというのも大げさなので、ほかにいい言葉が見つからず、あえて「舞う」という言葉にしました。)
稽古能では実際に公演する曲目を取り上げる場合と、ただ稽古のためだけに行う場合と二通りあります。
最近では実際に公演する曲目が優先され、今回空が出ましたので、「楊貴妃」の稽古を願い出たわけです。
配役
シテー柴田 稔 ワキー宝生欣哉
笛ー八反田智子 小鼓ー大倉源次郎 大鼓ー亀井忠雄
地謡ー浅井文義ほか
稽古能としてはもったいない配役でした。
さてさて、出来は如何に!?
稽古ですから実際の舞台と違って、この作品はこういうことが出せればいいという的を自分なりに絞込み、またからだの使い方もいつも以上にストレスをかけて行うようにするのですが、自分としてはいい勉強になりました。(答えになってない!笑)
ところで、どうして「楊貴妃」を選んだかというと、今年の私の演目に女の役がないのに気が付きました。
「鵺」、「天鼓」、「安宅」
あともう一つあるのですが、これも男の役になりそうなのです。
能楽師は誰もがそうだと思うのですが、いい女をどれだけステキに演じれるか、これを最終目的にしているのです。
女をやっている時が一番楽しいですから。
別に変な趣味があるわけではありません(笑)
今年の演目に女の役が無かったので、かねてより挑戦してみたかった「楊貴妃」を選んだのです。
この作品は世阿弥の娘婿の金春禅竹作とされています。
世阿弥の作品はとても「すなお」な要素を持つのに対して、禅竹の作品ははことばの奥にある世界をより強く表現することを要求されるので、世阿弥の「すなお」に対して禅竹は「屈折」という要素を多く持ち合わせています。
なんだかややこしいことを書きましたが、はっきり言うと、禅竹の作品はむつかしいのです。
観世寿夫先生のことばですが、若い役者に向かって、
「君は井筒は出来るだろうが、野宮は無理だね」
といわれたそうです。
「井筒」は世阿弥作、「野宮」は禅竹作。
この二つの作品は同じような構成で作られているのですが、「野宮」の方が断然裏の世界が大きいのです。
よって作品を読み込む力と強い表現力を備え持っていないと禅竹の作品は無理だとおっしゃりたかったのです。
私もまだ禅竹の作品を演じたことがありません。
自分の中で作品を暖めている段階です。(^_^.)
禅竹の代表作としては、「定家」、「野宮」、「芭蕉」などがあげられますが、この「楊貴妃」はこれらに比べて比較的すなおなので、禅竹への挑戦の第一歩として「楊貴妃」を選んだわけです。
能の古い伝書「童舞抄」という中に「楊貴妃」をこんなふうに書いています。
『此能、女能のうちにて真の能也。楊貴妃の物まねなる故に、うつくしく、位あるように舞事を本とせり。又、恋慕と哀傷を兼たる能也。足踏みにも心持あり。口伝・・・』(この能は、女能のなかでも最上の能といえる。楊貴妃の人物を演じるのだから、美しく、品位を持って舞込まなければならない。また、恋慕と哀傷との両面をそなえた能でもある。足拍子も心して踏まねばならない。これらはとても大切なことだ・・・)
楊貴妃は死後もなお、愛した玄宗皇帝のことが忘れられず、昔を懐かしみ、その心は皇帝へ恋慕の情で満たされています。それゆえに、恋しや恋しやとシクシク泣いてばかりいるのですが・・・(笑)
作品の最初から終わりまですき間なく恋慕の情が漂い、楊貴妃という美しい女性を甘美なベールで包んでいるかのようです。
しかしこれを単なる美しさだけで捉えるのではなく、表の美しさの裏にある暗さ、死んだ人間のわだかまりというものをしっかり捉えて、美しさに変えていく作業が必要なわけです。
裏の世界をしっかり捉えていくと、より表の世界は美しくなっていくわけで、この作業がとても面白くなります。
さて楊貴妃の裏の世界とは・・・
続く