「第十七回 能楽若手研究会 東京公演」 という催しが国立能楽堂主催公演として、2月2日に行われました。
番組
能(観世流) 松風 浅見慈一
狂言(和泉流) 吹取(ふきとり) 奥津健太郎
能(金春流) 土蜘 井上貴覚
能の場合、“若手”というとどの年代をさすのでしょうか。
シテ方の場合、子どもの時から舞台に出ている人も、私のように学生からこの世界に入ったものも、大学をでてから内弟子に入るのがほとんどですので、内弟子を卒業して一人前になる頃には30才を過ぎてしまいます。
ですからシテ方の場合ですと、いわゆる“若手”といわれるのは30~40才にかけての年代をさしている、と理解していただければと思います。
実は私も平成15年にこの若手能で「屋島」の能を勤めさせていただいています。
周りから、若手?!??!?? とやいやい言われましたが・・・(笑)
能「松風」
在原行平が須磨に流された時、そこの海士人姉妹と契りを交わすのですが、3年後、行平は都に戻り、残された姉妹は行平の帰りを待ち続け、やがては二人とも亡くなってしまいます。
死後も行平に対する愛情は消えることなく、恋の妄執が幽霊になって現れるという物語です。
舞台には汐汲みの海人が二人、行平を象徴する松の作り物、汐汲み車がだされ、
それらはとても美しい景色として目に入ってきます。
詩と音楽と絵画で構成された、能独特の世界がそこにはあります。
「松風」は本当によく出来た作品だと思うのですが、この公演をご覧になった方からは(比較的初心者の方が多かったのですが)、「松風」は寝てしまいました!という返事が・・・
やはり動きが少なく、謡を中心とした作品は、α波が多くでるのでしょうか・・・(苦笑)
狂言「吹取(ふきとり)」
これは狂言師が舞台で実際に笛を吹きながら狂言をするという、めずらしい作品です。
五条大橋で笛を吹くと妻になる女性があらわれる、という夢でお告げを受けた男は、自分は笛をふけないので友人に頼んで五条大橋で笛を吹いてもらうと、やがて一人の女性があらわれるのですが、この女性があまりにも醜女で、腰を抜かして逃げていく、そんな話しです。
吹いていた笛は能管でした。
おどろくほど上手な演奏でしかも、軽々と吹いていたのでなおさらびっくりです。
地謡座の後ろ、御簾の間から見ていたのですが、となりに笛方の松田弘之さんがおられました。今回この狂言師に笛を指導されたそうで、その成果をご覧に来られたのです。
「彼、うまいよねー」、と松田さん自身も驚かれていました。
松田さんに笛のことについて尋ねると、この「吹取」で吹いていたのは、
「下端(さがりは)」という狂言のアシライ笛と、「車切(しゃぎり)」といって、「末広がり」など祝言物の狂言のときに吹くアシライ笛を吹かれていたようです。
普段ですとこの作品のときは、狂言師が笛を吹くまねをして、実際は笛方が舞台に出て笛を吹くそうなのです。流儀によっては狂言師が吹く笛は縦笛の時もあるようです。
「吹取」で狂言師が舞台で笛を吹くのも見たのは今回が初めてでした。
能「土蜘」
他流の能を見る機会があまりないので、このようなときにはとても参考になります。
「土蜘」は源頼光の武勇と、それに抵抗する葛城山に住む土蜘蛛の民族との争いがモチーフになっているのですが、舞台で蜘蛛の巣を投げたりして、ハデハデでショウー的要素たっぷりな楽しい作品です。
家来を従え病気で伏している頼光のもとへ、若い女性(胡蝶)が見舞いにやってきます。
「色を尽くして夜昼の、境も知らぬ有様の、時の移るをも、覚えぬほどの心かな・・・」
これは最初の地謡の部分なのですが、素直に解釈すると、
(いろいろ手を尽くしてもなかなか病気は良くならない・・・)
という意味だと思うのですが、
若い女性が色気を使って頼光のもとに忍び込み、頼光を死に追いやっているとも解釈できるのです。
「色を尽くして・・・」は色気の色なのです。「時の移るをも、覚えぬほどの心かな・・・」 この言葉が怪しげな内容になってきます。
このように考えた方が断然面白いですから、胡蝶は土蜘蛛の身内のものという設定で私達は演じています(少なくとも私は)。この地謡の間に胡蝶は姿を消してしまうのですが、観世流の場合は頼光の家来までも胡蝶と一緒に消えてしまいます。
つまりこの二人はぐるだったわけです!
しかしこの日の金春流の「土蜘」の場合、頼光の家来は最後まで頼光のお供をしていました。
こうなればまた話は違ってきます。この家来は胡蝶とつるんで頼光をやっつけに来た者とは考えにくくなってしまいます。
同じ作品でもはいろいろ異なった演じ方があり、新たな発見があり面白かったです。