能「邯鄲」の物語を、「枕中記」、「太平記」と比較しながら検討していますが、最後は、
目が覚めて悟ったこと。
・「枕中記」・・・人生のはかなさを知り、欲を捨て、貧しい生活の中に生きがいを見いだす。
・「太平記」・・・人生のはかなさを知り、世捨て人となる。
・「邯鄲」・・・・・人生は夢のようにはかないものだと悟る。
「枕中記」では現実を如何に生きていくか、仙人となり永遠の命を獲得することを理想とした道教の教えの教訓譚になっていました。
「太平記・黄梁夢事」や能「邯鄲」では、この道教の立場をそっくり仏教の世界観にすり替えて書かれています。
現実のはかなさを説き、死後の極楽浄土を願う仏教観です。
「太平記・黄梁夢事」では”世捨て人”としか書かれていません。これは人生を諦めたということではなく、仏門に入ることを意味していると思うのですが、たかが一睡の夢で得た経験だけで現実逃避するのは、あまりにも安易過ぎるような気がしてなりません。
では能「邯鄲」の盧生はどうなったのでしょうか。
最後に結んでいる言葉は、「(人生は)夢のよぞと悟り得て、望み叶えて帰りけり。」とあります。
以前の記事にも書きましたが、能「邯鄲」を唱導劇として捉えるなら、この言葉どうりその後は仏門に入るということなのでしょうが、これではあまりにも短絡的な考えです。
「邯鄲」の作品の解説書には多くが、願いが叶い心満足して帰っていった、とあるのですが、これがどうも腑に落ちません。
今回「邯鄲」のことを考える以前は、ただ漠然と、名誉や富以外に大切なものがこの世にあることを盧生は知ったのだ、そんなふうに考えていました。
しかし人それぞれいろんな答えがあってもいいんだ、ということがやっと分かりました。
「邯鄲」を演じるもの、観る人の心模様あった答えを出せばいいのです。
能「邯鄲」の目的はこの答えをだすためのものではないのですから。
このブログにコメントを頂いた中に、
「・・・色々な望みがありますからね。あーかな、こーかな、と考えてそれでよいのではないでしょうか。答えはありませんよ、きっと。」
なかなか卓見だと思います。
私はここまでくるのにずいぶん時間がかかりました・・・ (^。^)
くどくどと「邯鄲」について書いてきましたが、理屈はこれで止めます。!(^^)!
舞台ではいろんな約束事があります。
それを紹介しながら、次回からは「邯鄲」の舞台の経緯を追ってゆきたいと思います。
題して、
「邯鄲」を100倍楽しんで観る方法