能「邯鄲」の物語を、「枕中記」、「太平記」と比較しながらみてゆきます。
まず、男の立場。
・「枕中記」・・・貧しい百姓の男で、立身出世を夢見ている。
・「太平記」・・・立身出世のため、臣下になることを志願する・
・「邯鄲」・・・・・人生に迷い、解決の手段として高僧を尋ねようとする。
能「邯鄲」では盧生のことについては、他の物語のように具体的なことが書かれていません。
『われ人間にありながら仏道をも願わず。ただ呆然と明かし暮らすばかりなり。
・・・尊き知識に、身の一大事をも尋ねばやと・・・』
盧生についてはこれだけの説明です。
しかしこの言葉の背景にはすごく大きな世界があるような気がします。
『われ人間にありながら仏道をも願わず』、しかしながら盧生は仏教にとても関心を持っているのです。
能の舞台では盧生は、掛絡を身につけ数珠を持っています。
これ即ち修行僧です。
ですから『われ人間にありながら仏道をも願わず』 は、仏教の勉強をしながらも、出家をしないでいるという意味なのです。
『ただ呆然と明かし暮らすばかりなり』、仏教以外にも現世において真理を見出そうとしている、その迷いなんだと思います。
仏教にも現世にも積極的に取り組んだ上での事なのだと思います。
どうしようもないこの苦しみから逃れるため、自分の生き方を高僧に尋ねてみよと、旅に出るわけです。
立身出世を望む他の物語と比べてみると、能の中の盧生はかなり哲学的な青年ですね。
それにしても立身出世という狭い世界にとどまることなく、盧生を設定した能の作者はすごいです。
演じる者も、観る者も、自分の悩みや思いを盧生にダブらせて見ることが出来ます。
人によってはいろんな盧生が誕生するわけで、それを許容している能作者の手腕は見事と言うほかありません。
二つめは、見た夢の内容。
・「枕中記」・・・妻をめとり、トントン拍子に出世し宰相となり、災難も経験するものの幸せな一生を送る(王位にはなれない)
・「太平記」・・・いきなり将相となり、やがては王姫をめとり王位に就く
・「邯鄲」・・・・・いきなり王位に就き、栄華の有様をとくと現し、千年もの長寿を手にする
「枕中記」だけが人生の苦難を経験するものの、栄華を極めるという点では3つとも共通しています。
「邯鄲」の場合他の物語のように手順を踏まず、いきなり王位になってその栄華のさまだけを現しているのは、演劇として主題をはっきりさせるという目的があってのことなのでしょうが、無駄なことをとり省いていくという、いかにも能らしい作り方だと思います。