日頃よく聞く、諸兄の現実問題。
これは今に始まったことではなく、明治時代になって能を全く知らない、謡すら聞いたことがない人を対象に公演するようになってから、
能楽界が抱える大きな問題だと思います。
それまでの江戸時代では幕府の式楽として、もっぱら武士の間で能は演じられていました。
演者も見る者も、全員能の作品は覚えていた環境での演能だったのです。
この問題を今から6年前にこのブログで取り上げています。
早稲田大学教授の竹本幹夫氏が「能の言葉の障害」について講義され、その時の内容をレポートしました。
要約してこちらに再掲載してみます。
【『観世寿夫 世阿弥を読む』 輪読会 第一回 2011.1.24】 (詳細はこちら)
「現在の能は、大きな曲がり角に来ていると思います。
そのひとつの要因が、言葉の障害です。
現代人とって、能を見ても言葉が理解できないから、能がわからない。
私のような研究者でも、台本を知らない新作能を見ると、言葉が理解できないから、どんな内容の物語か分からない。私ですら分からないのだから、一般の人はもっと分からないはずです。
そんな言葉の障害に対して、観世寿夫さんは、世阿弥の書物と向かいながら、彼なりの取り組み方をしています。」
観世寿夫師の著書からこの回答を引き出し、紹介されています。
・言葉の問題
「能には極めて単純ではありますが、一曲の筋書きがあります。しかしそのストーリー自体は、たんにその曲に入って行くための手掛かりに過ぎないので、曲の進展にしたがって表面的な筋書きはどうでもよくなって、たいした問題ではないといったものになってしまう事が多いのです。
そして単純な笛の音、大小の鼓のカケ声やリズム、それに伴った意味のない動き、これらの音と動きの流れに沿って謡われる歌、それは歌というよりも、むしろ一種の呪術的な祈りの言葉に近いものとなるのです。この状態においては、もはや歌詞の意味はたいした問題にはならなくなってしまうのです。」
・能の美しさ
「能の美しさはドラマを超越したところから生まれて来るところの生命感といったものと考えます。」
能の観かたというものを、演者側からの経験に基づいて的確に表現をされています。
これを参考にして私なりの鑑賞方法を言いますと、
①能を観るにあたって、まず簡単なストーリーを頭に入れておくこと。
②あまり細部にこだわらず、舞台全体から創り出されるエネルギーを感じ取る。
いかがでしょうか。今後の舞台鑑賞の参考になれば幸いです。
・余談です
昨日、葉山の一色海岸に仲間と遊びに行きました。
雨の予報が晴天となり、広い海を見ながらBBQと、すっかりくつろいだ一日となりました。
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