平成29年5月12日 銕仙会公演のために
文武に優れた忠度
〈文人としての忠度〉
忠度は歌人としても優れ、勅撰和歌集に11首入集されており、平家一門では父の忠盛17首、兄の経盛12首に継ぐものだそうです。(詳しくはこちらまで)
和歌は藤原俊成(としなり、または、しゅんぜいとも)に師事していました。俊成は息子の定家をはじめ、優秀な歌人を多数輩出したことで有名です。
今回のブログでは、平家物語に取り上げられている忠度の二つの和歌を紹介します。
【忠度都落】での和歌
和歌の師の俊成と忠度との間に起きたエピソードが、平家物語(忠度都落)〈覚一本〉に描かれています。
『木曾義仲によって都を制服された平家一門は西国へと逃れてゆきます。
忠度もその一人。そして忠度は生きて都に帰ることがないと悟ったのか、秘かに引き返し俊成邸を訪れます。
忠度は百首あまりの歌を書いた巻物を俊成に預け、一首でもよいから勅撰和歌集に載せてほしいと告げてその場を去って行くのでした。』
そののち俊成は後白河院の院宣によって勅撰集「千載和歌集」を撰進します。時は1188年。忠度(1144~1184)の死後です。
この千載和歌集の中に、俊成は忠度の願いを叶え一首の和歌を採用しました。
「故郷花といへる心をよみ侍りける よみ人しらず
さざなみや 滋賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな」
(さざなみの寄せる滋賀の都は荒れ果ててしまったが、長等山の桜だけは昔のままさいていることだろう)
忠度の念願は叶ったように思われますが、この和歌は<よみ人知らず>として入首されていたのです。
この勅撰集「千載和歌集」が編纂されたとき、平家はまだ朝敵の立場だったので、俊成は平忠度の名前を書かず<よみ人知らず>としたのでした。
このことについて忠度の想いは能のテキストでは次のように書かれています。
『千載集の歌の品には入りたれども。勅勘の身の悲しさは。読人知らずと書かれしこと。妄執の中の第一なり』
※勅勘=天皇からの勘当
(死後なお成仏できずに苦しんでいるのは、自分の和歌が名前入りで載っていないということが一番の原因なのだ)
能「忠度」はこの妄執が骨格となって構成されています。
忠度という公達は、一の谷で壮絶な死を遂げたことよりも、勅撰集に自分の名前が載っていないことの方がよほど悲しいことのようです。
【忠度最期】での和歌
平家物語「忠度最期」〈覚一本〉に取り入れられている和歌が、能「忠度」の本説(話の根本材料)となっています。
「旅宿の花
行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵の あるじならまし」
(日が暮れて桜の木陰を宿とするならば、桜の花が今晩の宿主になってくれるだろう)
この和歌は、忠度が一の谷の戦いで岡部忠澄(おかべのただずみ)に討たれた時、箙(えびら・背中に負って矢を入れる筒状の入れ物)に文が付けれられてあり、その文に書かれたものです。
岡部忠澄が忠度の箙からこの和歌を見つけたのです。
命が尽きる最後の最後まで、和歌の世界から離れなかった忠度。
こんな忠度を世阿弥は能の中で描きたかったのだと思います。
※上の写真はウィキペディアより借用 (平忠度 小林清親画)
次回は登場人物とあらすじの紹介
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