平成29年5月12日 銕仙会公演のために
能「忠度(ただのり)」について私なりに(独断と偏見をもって)紹介してまいります。
【平忠度という人物について】
薩摩守(かみ)・平忠度(たいらのただのり) 1144年~1184年 享年41才
平家一門の武将で、平忠盛の六男、清盛の異母弟にあたります。
父の忠盛と同じく、文武ともに優れた人物。
〈武人としての忠度〉
源頼朝討伐の「富士川の戦い(1180)」、源義仲討伐の「倶利伽羅峠の戦い(1183)」に参戦し、
一の谷の戦いでは西門の大将軍として戦ったのですが、源氏軍の岡部忠澄〈忠純とも〉(ただずみ)(別名・六弥太)に討たれ41才で亡くなっています。
その時の官位が正四位下薩摩の守。
一の谷の戦いの様子は、平家物語ではこのように語られています。
[忠度最期](覚一本)
『義経による一の谷の背後からの攻め(鵯越・ひよどりこえ)によって、後退を余儀なくされた忠度は岡部忠澄に追いつかれ、馬上で組合う。
そのまま落ちた二人、忠度は岡部忠澄の兜を刀で三度刺し抜くも傷が浅く、
それを見ていた家来が忠度の背後から襲いかかり忠度の右手を切り落とす。
忠度はこの家来を左手で投げ飛ばし、今が最後と観念して念仏を唱えたあと岡部忠澄によって首を打ち落とされる。』
壮絶な最期の模様が描かれています。
この忠度塚は平成7年阪神淡路大震災によって崩壊したものを、地元の人々によって修復されたようです。
柱の新しいのが見てわかりますね。
次回は、文人としての平忠度を紹介します。