|
|
|
[ 2011年 09月 17日
]
|
|
|
|
「葵上」を100倍楽しむ方法!③ 能のことを「見えないものを見る演劇」といった方がおられます。 上手い表現だと思います。 また能にはいろいろな「約束事」があります。
その「見えないもの」と「約束事」を、舞台経過を追いながら解き明かしてみます。~舞台経過~今回の公演では「梓之出(あずさので)」、「空之祈(くうのいのり)」という小書き(特殊演出)がついていますので、通常の進行とは異なるところがあります。
場所 葵の上邸の寝室
① 葵の上の登場
囃子方、地謡が所定の場所に坐すると、後見が小袖を持って現れ、舞台正面に広げて置きます。 これは葵の上だという「約束事」です。
この小袖はすそを地謡側に向けておきますので、葵の上の足元は地謡側、頭は幕側にして臥しているということになります。
(このあとの場面で、シテは葵の上の顔を睨みつけたり、打ちすえたりします。その向きに注目してください)
②臣下(ワキ)が登場
臣下は葵の上の容体の異変を説明し、葵の上にとり憑いた霊の正体を突き付けるために照日(てるひ)の巫女(みこ)(ツレ)を呼び出します。
③照日の巫女の登場
照日の巫女は舞台正面の葵の上の前に座り、口寄せの呪文(天清浄地清浄・・・)を唱えます。
この巫女は梓弓を弾いて霊を呼び出しているのですが、実際に梓弓は手に持っていません。
これは梓弓を手に持って弾いているという、「見えないもの」のことがらです。
弓を弾く音の代わりに、小鼓が『プ、ポ、プ、ポ・・・・』と打っています。これも「約束事」の一つです
④六条御息所の生霊の登場
その梓弓の音に惹かれて、女性(シテ)が橋掛りに現れ、なにやら胸の苦しい想いをつぶやきます。(これが「梓之出」の演出です)
そもそも巫女の祈祷によって現れた女性の姿は、本来は巫女にしか見えていない世界のはずですが、
舞台にいる臣下も客席にいる人々も見えてはいないのですが、能の面白いところは、「見えないことまで見えてしまう」なのです!(笑)
このときのシテはあの【賀茂の車争い】で打ちのめされた破れ車に乗って現れているという設定です。
この車は舞台には出ていません。お客様が頭の中で思い浮かべて見なければなりません。これも「見えないもの」の一つです。
⑤生霊が葵の上と対面
この女性は橋掛りにいる時は、自分はまだ誰それとは名乗っていませんし、きわめて冷静です。
しかし舞台に入り葵の上の姿を見るや、急変して恨みごと述べ、自分は六条御息所だと名乗るのです。
⑥巫女の口寄せ
巫女の口ずさんでいる背後に、六条御息所の声も聞こえてきます。
この場面なんかは能でしか表現できない、非常におもしろいところでもあります。
二つの声を聞き分けてみてください。(シテとツレが同吟しているのですが、これも「梓之出」の演出の一つで、常の場合にはシテ一人のみの謡です)
⑦後妻(うわなり)打ち
六条御息所は葵の上の前で恨みを述べ、気持ちが頂点にまで達するとと、葵の上の枕元に近寄り顔をめがけて扇で「バシッ」と打ちすえます。
恨みが遂には暴力沙汰にまでなってしまいました。
果てには襟元をつかんで、葵の上を連れ去ろうとまでしまうのです。
その怨念は凄まじです。
ここで六条御息所の生霊は幕に引き、姿が消えたということになります。
⑧後場 臣下の下人(アイ狂言)の登場
深刻な事態になってしまったので、臣下は下人を呼び付け、霊を退治する小聖(こひじり)(ワキ)を呼びに行くよう命じます。
⑨小聖(こひじり)(ワキ)の登場
小聖とは祈祷僧のことです。
下人に呼び出された小聖は、葵の上の前で数珠をもみ、呪文を唱え祈祷します。
⑩悪鬼(後シテ)の登場
六条御息所は緋の長袴(ながばかま)を引きずり、真っ白な衣をかぶって、身を隠すように悪鬼となった姿で現れます。
⑪悪鬼と小聖のバトル
能では「祈り」と呼んでいる場面です。
(「祈り」があるのは、「葵上」、「安達原」、「道成寺」、この3曲だけ。必ず『般若』の面を着けます)
「祈り」とは、悪鬼と小聖との闘いを表現する“働き事“で、
悪鬼は打杖(うちづえ)を振りかざし攻めかけ、小聖は数珠を揉んでこれに対抗します。
今回の「空之祈」では、バトルの最中に小聖が悪鬼の姿を見失い、葵の上に向かって一心不乱に数珠をもみ祈祷する場目が入ります。
この時シテの悪鬼は橋掛りに行き、少し離れたところから、舞台の小聖と葵の上の様子を伺っているのです。
⑫成仏得脱
遂に悪鬼は祈り伏せられ成仏し、もう二度と現れないと約束して姿を消します。
終わりはメデタシ、メデタシです。
これで「「葵上」を100倍楽しむ方法!」は終結します。
またまた公演まぎわのアップになってしまいました。
こんなんじゃ、100倍も楽しめない!
ごもっともです。また大ほらを吹いてしまいました!(-_-;)
「葵上」で、前シテの登場で車を実際に出し、車副えの女も出す演出で上演されることが最近では行われています。
これは世阿弥の伝書で車を出したことが書かれていることに基づき、その形態を復活させようとした試みです。
このやり方だと、物語の内容もわかりやすく、詞章のあいまいさも解消するのですが、
室町時代末には、すでに現代の方法となっているのです。
なぜか。
それはひとえにシテの情念の世界を引き立たせるための手段だと思うのです。
私たちの先人が、能をわかりやすく表現することよりも、主人公の心の世界をいかに表すか、この後者を選択した事はとても意義あることだと思っています。
今回「葵上」を演ずるにあたり、この問題を検証したかったのですが、時間不足、勉強不足もあって実現に至りませんでした。
いつかはきっと!
|
|
by shibata-minoru
| 2011-09-17 03:51
| 逗子「能三昧」
|
Comments(0)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|