第11回 青葉乃会 「俊寛」
先月、青葉乃会で「俊寛」という能を演じました。
この俊寛という人物は、史実と平家物語で描かれている話とではずいぶん違っているようです。
俊寛の史実と虚構
・鹿の谷山荘
後白河法皇を頭に、平家打倒のクーデターを起こそうと作戦会議がなされた場所が、京都東山にある「鹿の谷山荘」。
この「鹿の谷山荘」は俊寛の別荘であったと、平家物語では設定されています。
しかしこれは史実ではなく、平家物語の作者が作り上げた虚構だったのです。
この山荘の本当の持ち主は、クーデターを企んだ一員の浄憲法印(藤原信西の息子)とされています。
この浄憲法印はクーデターを起こしたメンバーの中でもっとも温厚な人物で、清盛から唯一なにのお咎めもなかった人物です。
ではいったいなぜ平家物語の作者は、鹿の谷山荘の持ち主を、浄憲法印→俊寛 にしたのでしょう?
それは俊寛が山荘を提供したという、さらなる罪人に仕立て上げたかったのです。
だから俊寛は罪を許されなかったのだと。
では俊寛一人許されなかった赦免状について。
・鬼界ヶ島に届いた赦免状
高倉天皇の中宮徳子の懐妊にともない、鬼界ヶ島の流人にも大赦がおこなわれました。
しかし罪を許されたのは康頼、成経だけで、俊寛はこの赦免から外れてしまうのです。
俊寛はこの後、島で餓死を選び、自ら命を絶っています。
これが平家物語の話です。
でも実際はそうではありません。
俊寛は鬼界ヶ島で亡くなった、このことは史実なのですが、
赦免状が届けられた時にはすでに死んでいたのです。
平家物語の作者は、俊寛は信仰心もなく、傲慢で私欲が強く、
清盛に可愛がられていたのに自分の別荘でクーデターの密談をしていたという悪条件をそろえ、俊寛一人赦免から外れたのだというシナリオを作ったのです。
しかもそのあとには、俊寛には壮絶な死が待ち受けています。
(平家物語第3巻「僧都死去」の場面は、涙なしでは読めない壮絶な文章でつづられています。)
平家物語の作者は徹底的に俊寛を打ちのめしています。よほど憎かったのでしょう。
・中宮徳子懐妊の大赦の謎
徳子は懐妊したものの肥立ちが悪く、これは怨霊のせいだとされました。
怨霊には死霊と生霊があって、この霊を慰めるために大赦がおこなわれたのです。
死霊の大赦
・保元の乱で讃岐に流されて死んだ讃岐院に「崇徳院」の称号をあたえる
・保元の乱で敗死した藤原頼長に「太政大臣正一位」の官位をあたえる
生霊の大赦
・鬼界ヶ島の流人のうち康頼、成経を赦免
俊寛は清盛の怒りがおさまらず赦免から外れたのです。
これはヘンだと思いませんか。
物の怪で苦しむわが娘徳子を助けるために大赦を行ったはずなのに、赦免しない人物を作ると、その霊はますます強く徳子を襲うのでは、と考えるのが普通ではないでしょうか。
やはりこのへんは平家物語の作者の創作としか考えられません。
私の独断と偏見の解釈ですが、
都から送られてきた赦免状には3人の名前、俊寛、康頼、成経があったと思うのです。
しかし俊寛はその時には既に死んでおり、実際都に帰ってきたのは康頼、成経だけだった。
この事実からいろんなイメージが湧いてきて、俊寛の物語が伝承されるようになったのではないでしょうか。
・能「俊寛」について
これら歴史的事実や平家物語の俊寛像を、能の作者は十分知っていたはずです。
しかし能の作者がテーマにしたのは、清盛と俊寛の人間関係ではなく、
不信仰ゆえに平家物語の作者から嫌われた俊寛でもなく、
俊寛が経験することになった生きながらの地獄、「人間の孤独」を私たちと同じ等身大の姿で描くことだったのではないかと思います。
この作者は世阿弥の息子の元雅、あるいは金春禅竹ではないかとされています。
私は個人的な感想では元雅の作品ではないかと思っています。
あくまでも私の感想に過ぎませんが。
これで”第11回 青葉乃会 「俊寛」”のシリーズは終了にしたいと思います。
来年の青葉乃会はまだ未定です。<(_ _)>
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