京都・嵯峨野 「野宮神社」
週末に大阪の実家で法事があり、それに合わせて京都の嵯峨野のあたりを散策してきました。
まずは青葉乃会で行う能「野宮」の舞台となっている野宮神社を訪ねました。
能では野宮神社を模して、作り物を舞台に出します。
(この二枚の写真を並べるのは面白いですね)
能「野宮」は源氏物語を本説に作られ、賢木(さかき)の巻には黒木の鳥居と小柴垣に囲まれた野宮の描写があります。
野宮と聞いて、室町時代に能を観ていた人には、「あぁ、あのことか」と、理解することができた言葉だったのでしょうが、
しかし私を始め、いまの現代人には、野宮と聞いてその意味を理解できる人は、まずいないのではないかと思います。
日本の古い時代、天皇に変わって伊勢神宮に奉仕した皇女のことを斎宮(さいぐう)といい、その御所を“野宮”と言ったそうです。
斎宮は宮中で一年間、野宮で一年間身を清めるための潔斎をおこない、三年目の秋、伊勢へと赴いたそうです。
右の写真はトロッコ嵯峨駅構内に置かれていた御所車です。
伊勢に下向するとき、斎宮が乗った御所車を再現させたもので、
「斎宮行列」のお祭りに使われているようです。
野宮は都の外野を意味し、平安時代には嵯峨野あたりに固定されました。
この斎宮の制度は鎌倉時代まで続き、能の「野宮」ができた室町時代には、その名残が残っていたのでしょう。
能「野宮」は源氏物語の六条御息所が主人公です。もちろん六条御息所は名前からしても、斎宮ではありません。斎宮に選ばれたのは、彼女の娘なのです。
彼女は娘に付き添って野宮にいたわけで、能「野宮」はややこしい題名です!(笑)
六条御息所は、生まれも地位も高く、教養があり、美人で趣味もよく、完璧な女性とされています。
十六歳のとき光源氏の父・桐壷の帝の弟(皇太子)と結婚し、御息所となり、一人の娘を設けますが、
二十歳の時に夫と死別し、そのあとは源氏と契り、源氏の第二の妻の座につきます。
しかし、源氏の彼女に対する思いは薄れ、それを悲しむ彼女は、源氏と別れるため娘と伊勢に下向する決心をしたのです。六条御息所が三十歳の時です。
源氏と御息所が最後の夜を過ごしたのが、野宮だったのです。
源氏は御息所にあうため、秋の嵯峨野へ赴きます。
そのことを源氏物語はこのように描いています。
『はるけき野辺を分け入り給ふより、いとものあわれなり。
秋の花みなおとろへつつ、あさぢが原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹きあわせて…』
もの淋しい様子が目に浮かびます。
今回の野宮神社への訪問は、黒木の鳥居と小柴垣を見ること、それと嵯峨野の寂れた景色を見ることにありました。
が・・・・
あたりの景色は秋に移ろうとしているのですが、
猛暑の勢いは衰えません。
カメラ片手に、汗だくになって歩き回っていたというのが正直な感想です。(笑)
JR嵐山駅から、徒歩で15分くらいのところに野宮神社はあります。
途中、竹林が茂る一角、深い藪にあたりがひんやりしていたところがありました。
これが昔の面影かな、そんなことを思って自分を慰めていましが・・・(笑)
野宮神社の辺りにはたくさんの小柴垣がありました。このあたりの藪にはタヌキもキツネも住んでいるようで、
このけものたちのために、抜け穴を作ってあったのが面白かったです。