(新熊野神社の境内にある「能」と刻まれた碑)
早いもので京都の謡跡巡りツアーからは一週間も経ちました。
楽しい思い出はいっぱい残りましたが、能にかかわることだけアップしておきます。
清水寺参拝のあとは、徒歩で方広寺、豊国神社、三十三間堂、新熊野神社を訪ねました。
豊臣秀吉は晩年に能を愛好し、みずからも能を数多く演じたことが知られています。
その秀吉が奈良の東大寺を真似て建立したのが「方広寺」。ここに東大寺の大仏より大きな大仏を建造した話は”幻の大仏”として言い伝えられています。
200メートルばかり続く
境内の巨大な石垣は、当時の秀吉の権力の象徴ともいえるもので、諸国の藩士たちが巨石に家紋を刻んで奉納したそうです。
今はこの境内のなかに方広寺、豊国神社、国立博物館が立ち並んでいます。
方広寺の鐘楼を訪れました。
大阪夏の陣を引き起こし、豊臣家が滅びた元凶ともなる巨鐘が当時のまま残っています。
鐘に刻まれた銘文に、徳川家康が物言いをしたことがことの始まりだとか。
「国
家安
康」、「君
臣豊楽」この言葉に家康はカチンときたようで、これを「家康を引き裂き、豊臣が安泰になる」と読んだそうです。
この鐘楼のそばに豊国神社があります。
秀吉亡きあと、豊国神社は建てられたそうですが、徳川家に壊され、数百年たって明治天皇によって方広寺境内に再建されたと記されていました。
この日、豊国神社では結婚式が行われていました。
核家族、少子化の象徴でしょうか、新郎新婦とその親御さんだけの極めてシンプルな儀式を営んでおられましたが、これを見た私たちのツアーの人が、「なんと寂しい結婚式なんだ、青森では考えられない」と言っていました。
方広寺の敷地の隣には三十三間堂があります。
今回の青葉乃会での演目、素浄瑠璃「三十三間堂棟由来」の舞台となったところです。
ここは何度も訪れているので、私はパス。近くにある京菓子の老舗「
七条甘春堂」で桜餅をいただきながら足を休めていました。(主催者ががさぼっています(^o^))
実は今回の京都の旅へは、私は着物を着て出かけました。
翌日、このツアーのなかで某能舞台で仕舞を舞うことになっていて、そこでは着替える時間も場所もないので、やむを得ずの対処だったのですが、草履での長行脚には少々くたびれていました。(+_+)
最後は新熊野神社です。
ここは能の発祥の地ともいわれ、能に携わる人は避けて通れない場所です。
新熊野と書いて、”いまぐまの”と読ませる日本語は難しいですね。
奈良を本拠地にしていた観阿弥は、京の都への進出を狙っていました。観阿弥40歳くらいになるとその名声が都でも広まり、新熊野神社で行われた勧進能に時の将軍足利義満が出向いて観阿弥の舞台を見物しました。
この時観阿弥は「翁」の大夫を演じたのです。
(それまで「翁」の大夫は、座の長老が勤めることになっていたのですが、この時初めて座のなかで一番実力のある座長が勤め、このことも能の世界では画期的なことだったようです。)
これを見た義満がいたく感激し、以後能を庇護するようになり、観阿弥、世阿弥のおおきなパトロンとなって能を支えていくことになります。
時は1374年の出来事。そのとき義満17才、観阿弥42才、世阿弥12才。
義満は美少年の世阿弥を見染め、稚児として溺愛し、世阿弥は義満の力で能を大成させてゆくに至るのです。
男色のお守り!?
神社の社務所にこんなお守りを売っていました。
お稚児さんと貴人が描かれ、背景に小面の面が描かれていました。これは「縁結び」のお守りだそうです。
男同士の縁結び、男色のための縁結び(笑)、とも思いたくなるような品物です。
お稚児さんは世阿弥、貴人は義満、二人の愛の象徴が小面のほほ笑み! 出来すぎですね(笑)
このお守りを見てそんな話をしていたら、宮司さんがこのお守りについて説明してくれました。
「世阿弥は義満と出会ったことで大成したように、これは人生のなかで良き人と巡り合えるためのお守りです。」
なるほど、なるほど、 私も早速このお守りを買い求めました!(笑)
この日は「本家だるま家」で夕食をとり、そのあと二次会へは祇園のお茶屋さんに全員でおしかけました。
綺麗な舞妓さん、芸子さんが3人も来て、大いに盛り上がりました。
プライバシー保護の留、お茶屋さんでの写真をアップするのは控えておきます。(笑)
今回のツアーでは京の町家を三軒貸し切って宿泊しました。
私が泊まったところは筋屋町町家。
屋根裏部屋が私の寝室でした。どうです、なかなかオシャレでしょ!