先日仙台で公演があった次の日、塩釜の浦まで散策してきました。
塩釜の浦には籬島(まがきしま)が浮かんでいます。
能「融」に出てくる話です。
時ははるかの昔、平安時代。
源融は陸奥(今の仙台)の塩釜の浦をそのまま、京都の河原に再現させました。
屋敷のなかに賀茂川から水を引き、広大な池を作って、そのなかに小島を浮かばせ、
『あれこそ籬が島(まがきがしま)候よ。
融の大臣(おとど)常は御舟(みふね)を寄せられ。
御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし』 (能「融」より)
とあるように、その小島を籬が島に見立て、舟を浮かべて遊興にふけていたのです。
また塩釜は当時、海水を焼いて塩を作ることでも有名なところでした。
融の大臣も抜かりはありません!
浪速の浦から日ごとに潮を京の都まで運ばせ、この池のほとりで塩焼きをして遊んでいたのです。
とてつもなく贅沢なスケールの大きい遊びですね。
もちろん源融も、能「融」の作者の世阿弥も、実際には塩釜の籬島は見たこがなく、まったく想像の世界だと思うのですが。
京都の五条河原町、五条大橋付近に融の屋敷あとの碑があるそうです。
また京都の七条、京都駅から歩いて10分くらいのところですが枳穀邸(きこくてい)という庭園があり、ここは融の大臣の屋敷だった河原院の庭園を真似て作った庭園だとされています。
数年前この枳穀邸を訪れたことがあります。(下の写真)
源融があこがれ造った塩釜の浦とはこんな感じだったのでしょうか。

塩釜には潮焼きに使った窯を祀る「御釜神社」があります。
ここも回ってきたのですが、塩釜の駅から歩いて五分くらいのところにありました。

これが祀られている釜です。

一方、枳穀邸のなかにあった釜です。
ずいぶんと大きさが違いますね。
源氏物語の光源氏のモデルになったとされる源融ですが、ここで大事なことは、なぜ融の大臣が河原院の屋敷に塩釜の浦を造ったかということです。
一説には、天皇になれなかった源融が、当時の政界の権力者・藤原基経への抵抗だったともされています。
このところを押さえないと、能「融」はたんなる遊興だけにとどまって面白くありません。
このことについては、いずれの機会をみてお話しします。(^。^)