能には舞台装置というものがまったくありません。
田舎から都にやってきたとか、昼から夜になったとか、場所の転換や時間の変化など、演者と観客がお互いに想像して舞台を創っていく必要があります。
同じ三間四方の舞台に役者が二人いても、まったく別の場所に位置していることなどよくあることです。
それゆえに暗黙の約束事というものが多々あります。
それを解きほぐしながら、舞台の進行を追ってゆくのが、“100倍楽しく見る方法!” のねらいです。
「自然居士」を100倍楽しく観る方法! ① 演劇評論家の渡辺保氏が能を観て眠くならない方法として、
能の場面を細かく分けて観るとよい、と言われていました。
そのためには前もってかなり調べて置く必要があるのですが、毎回毎回そんなことは出来ませんね。
でも「自然居士」はこのブログを見れば、ばっちりです!(^。^)
「自然居士」は場面が二つに分かれます。
前半は京都・東山の雲居寺界隈。
後半は人商人が船出しようとする琵琶湖の大津。
まずは前半、
ところは京都の雲居寺、時は夕刻か。(『月待つほどの慰めに』とあるので)
雲居寺門前の者に呼び出された自然居士は、橋掛かり一の松で、
『雲居寺造営の札、召され候へ』 と、集まった聴衆に寄付を募り、舞台に入って説法を始めます。
前半は自然居士、少女、人商人、それぞれの登場で三つに分けて見て行きます。
・自然居士の説法『説法一座述べんとて、導師高座に上がり、発願の鐘打ち鳴らし』
自然居士は高座に上がって説法を始めます。
高座といっても舞台では床几(→)に腰掛けるだけですが。以前に梅若六郎師が実際に台を出して、その上に床几を置くという演出で行われたことがありますが。
舞台に導師、客席が聴衆、能楽堂は説法の場となりました。
・諷誦文を持った少女の登場『あらいたわしや。これなる幼き人の、諷誦を上げられ候か。まず此方へ御入り候へ。』
説法の最中、手にお布施の衣と諷誦文をたずさえた少女が、門前の男に誘われ居士の下に現れます。
諷誦文とは、死者追善のために供え物をして僧に諷誦(読経)を願う文章のこと。
お布施の衣は居士の前に広げられ、居士は諷誦文を読み始めます。
文は能の小道具の一つ(→)、もちろん何も書いてありません。カンニングペーパーとして詞章を書きたくなるときもありますが(笑)
この諷誦文を読んだ内容を原文の形に再現してみました。
「敬白 (敬って申す)
請諷誦事 (うくる諷誦のこと)
三宝衆僧御布施一果 (三宝衆僧の御布施一果)
右志處者為二親精霊頓證仏香 (右、志すところは、二親精霊仏香のため)
供養三宝奉 (三宝に供養し奉る)
蓑代衣怨 疾出浮世中 (蓑代衣怨めしき、浮世の中をとく出でて)
先考先妣諸共生同臺 (先考先妣諸共に、同じうてなに生まれんと)
諷誦所請如件敬白
永和元年五月十八日女弟子 敬白」
(謹んで諷誦を願いあげます。
三宝(仏・法・僧)と大勢の僧に、お布施として衣をひと包み差し上げます。
その目的は、亡き両親の霊魂が速やかに成仏することです。
ここに蓑にするよな粗末な衣ですがお供えします。
[緑字の所は地謡が担当]
(自分の身を売って得た)蓑代衣が恨めしく思われます。
こんなにつらい世の中とは早く離れて、
死んだ両親と一緒に極楽浄土に生まれることを願ってやみません。
※先考(せんこう)-父、 先妣(せんぴ)ー母
(最後の2行は能本にはありません。結びの言葉と日付です。 ちなみに日付の月日は私の誕生日です(^.^) )
この地謡の前に自然居士は中国の故事を思い出し述べます。
『かの西天の貧女が、一衣を僧に供ぜしは、身の後の世の逆善』
(昔、天竺に住んでいた貧女がただ一枚しか持っていなかった衣を僧に贈って、その功徳で死後は天上に生まれた。)
諷誦文と西天の貧女の話は言葉が難しいので、このせつなさが伝わりにくいと思ってここで紹介しました。
人商人の登場少女のけなげな姿に居士も聴衆も涙を流している時、ワキの人商人が少女を連れ去ります。
じつは少女はお布施を得るために、自らの身を売ったのでした。
居士は説法を切り上げて、お布施の衣を持ち、少女の救出に向かいます。
在家の論理では、お金を出して少女を手に入れた人商人には道理があり、少女を奪い返そうとするこちらは僻事(ひがこと)・無理がある、ということになります。
しかし居士は仏法の論理で、善悪の基準で人商人と対戦します。
つまり人商人は悪、少女は善、それを助ける居士もまた善。
『身を捨て人を助くべし』
身を捨ててこそ、法の道が開かれるという教義が自然居士の強い信念になっています。
この信念を持って、こののち人商人から少女を奪い返しに行きます。
舞台では人商人は少女を連れ去った後、少女はワキ座、人商人二人は地謡の前に着座していますが、話しの進行から言えば、彼らは琵琶湖の大津に向かって旅をしているのです。
普通の芝居なら、そでに引いて姿を消しているところですが、能では雲居寺にいる自然居士と同じ空間にいることになります。これは変なことです。でもそんなことちっとも気にしないのが能なのです!(^_^;)
実際、人商人が少女を連れ去った後、居士と寺男が会話している時には、観客からは人商人たちはは視界から消えて見えなくなっているのですが、
能って不思議です!