7月10日、銕仙会定期公演で「浮舟」を演じます。
ご覧いただく方のため、鑑賞の手助けとなるよう私なりに「浮舟」を紹介してみます。
【浮舟という人物について】
浮舟とは源氏物語の宇治十帖(光源氏が亡くなった後の物語)に登場する女性のことです。
能「浮舟」のサブタイトルを「三角関係に苦しむ女の煩悶」としました。
浮舟は薫中将という男性と契りをなして、宇治の山荘に隠まれていました。薫中将は恋には消極的な男性なのか、余り浮舟のもとへは通わなかったのです。匂宮(におうのみや)も浮舟のことを慕っており、薫のいない時を見計らって浮舟を訪ね、強引に関係を結んでしまいます。
始めは罪の意識で後悔する浮舟ですが、匂宮の情熱的かつ積極的な求愛に大きく心が傾いて、匂宮との逢瀬を楽しむようになっていきます。
しかしこの2人の関係が薫中将に知れてしまうのです。つまり浮舟の浮気がバレてしまったのです。
どうすることもできない浮舟は三角関係を清算するために死を選びます。宇治川に入水しようと決意したのでした。
山荘を抜け出し、夢遊病者のように彷徨う浮舟ですが、入水する前にある物の怪に取りつかれ意識をなくしてしまいます。
そこへ偶然通りかかった横川の僧に助けられ、一命をとりとめるのですが、この僧に願って出家することになり、娑婆との縁を断ち切ってしまいます。浮舟に取りついた物の怪も、この僧の法力で払うことができたのです。
・この時の年齢
浮舟ー22才
薫中将ー27才
匂宮ー26才
・源氏物語におけるこの三人の家系図
浮舟ー光源氏の腹違いの弟・八の宮の娘
薫中将ー光源氏と女三の宮の息子(種は源氏ではなく、柏木だったのですが)
匂宮ー光源氏と明石の君とにできた娘・明石の中宮が今上帝との間に産まれた宮
光源氏から見れば、浮舟は姪っ子、薫中将は息子、匂宮は孫にあたることになります。
【能「浮舟」について】
「浮舟」は前・後の二場面からなる夢幻能の形式をとっています。
登場人物は浮舟と旅僧
・前場 <浮舟が入水しようとした宇治の里>
奈良の初瀬を参拝した僧が、都に赴く途中宇治に立ち寄ります。
そこに里女が現れ、昔ここに浮舟が住んでいたこと、薫と匂宮とのことなど源氏物語の話を僧に語り聞かせます。じつは自分は浮舟の亡霊であることをほのめかし、死後も物の怪に取りつかれて苦しんでいるので、法力で救ってくださいと僧に救済して姿を消します。
・後場 <浮舟が出家した小野の里(琵琶湖西岸にある比叡山の麓)>
僧の夢中にありし日の浮舟が現れます。
僧の前で、自分がもう生きていられなくなって入水しよとした時のことを回想し(源氏物語・手習の巻の源氏言葉をそのまま引用してあり、「浮舟」の中で最も注目すべき場面です)、物の怪に襲われ、気を失しなうまでの苦悩をカケリ”という舞ごとで表現します。
最後はこの旅僧の法力のおかげで、死後にもなお取り憑いた物の怪が立ち去り、浄土の世界に生まれ変わることを喜んで終結としています。
【「浮舟」の作者と作品のねらい】
・作者
世阿弥の著書・申楽談義によれば、
「浮舟 これは素人横尾元久という人の作。ふしは世子つく」
とあり、「浮舟」は横尾元久が作品を書き、世阿弥が節付けをした二人の合作ということになります。
横尾元久という人物は能役者ではなく、武士であったことが研究報告されています。
・作品のねらい
浮舟が薫と匂の宮との三角関係に、死を決意するまでの到る苦悩を描き出しているのですが、
これとは別に、浮舟が死後まで物の怪に取り憑かれて苦悶している、旅僧の法力で物の怪からやっと解放されて成仏できた、このことが作品の骨格になっています。
この物の怪の正体は薫や匂宮とは全く別人で、源氏物語では横川の僧によって取り祓らわれたとしているのですが、能「浮舟」では、浮舟の死後までまとわりついているという設定です。
この憑き物による能「浮舟」を世阿弥は、『逢い難き幽花の種』として女体の能姿の理想として絶賛しています。<三道(能作書)>
・世阿弥が説く心得
また世阿弥はこの「浮舟」を演じるにあたって、強い思い入れを述べているところがあります。
カケリの後、仏の救いの場面に入る直前の箇所に、
『この浮舟ぞ寄る辺知られぬ』という詞章があり、この部分を、
「この所、肝要なり。一日二日にもし果つるようにねじつめて納むべし」といっています。(申楽談義)
わずか一句ながら、「一日も二日もかけるほど念入りに謡込め」という意味です。
この詞章は浮舟が匂宮に連れ出され、宇治川の船の中で逢瀬を楽しんだ時に詠いじ交わした浮舟の歌の下の句です。
匂宮
『とし経とも 変わらんものか 橘の 小島のさきに 契る心は』
(いくら年が経ようとも、決して変わることはありません。いまこの橘の小島であなたを思う気持ちは)
この返歌に、浮舟
『橘の 小島の色は 変わらじを この浮舟ぞ ゆくえ知られぬ』
(あなたの心は、あの橘の小島の変わらぬ緑と同じように変わることがないでしょうが、私は何時どうなるか分からない身の上です)
・宇治川(今年2月に撮影)
宇治橋から撮りました。右手側に宇治平等院があります。
正面中ほどの島が「橘の小島」、 余談ですが正面先の山が「頼政」にでてくる「朝日山」。
薫が浮舟を匿っていた山荘は、この写真では宇治川の左手・宇治上神社側で、匂宮は右手・平等院側に屋敷を持っていたようで、匂宮は夜なか浮舟を連れ出し、宇治川を船で渡って自分の屋敷に誘い込んだということになります。その時、橘の小島を目にして二人が歌を交換したのが上の歌です。
世阿弥が絶賛している「浮舟」ですが、銕仙会ではことのほか大切に扱っている作品です。
次回はそのことについて紹介します。