最近このブログでは「拍手」のことが話題になっていましたが、ここに面白い記事を発見しました。
『能楽史事件簿』(岩波書店)によると、室町時代の初期、つまり世阿弥の頃の時代では演能の最中に声を飛ばしたり、手を叩くことが公然と行われていたようなのです。
以下、そのところの抜粋です。
「能の褒め役というのは、室町時代初期からあったのです。つまり、観世太夫が将軍の前で能をやるときには近江猿楽の日吉とか田楽の役者が必ず舞台の前に褒め役で座っているのです。しかるべき場所で手を叩いたり褒めたりする、そういう役目が昔から制度としてあったのです。それを呼ばないと、権利を侵害されたように褒め役の役者が起こるんですよ・・・・・」(表章氏)
これはまるで今の歌舞伎の世界です。
この習慣は秀吉の時代までおこなわれていたようです。
(豊臣秀吉は能をとてもひいきにしていことは有名です。秀吉自信、能を舞っており、また自分の手柄話を能に作り、自らその能を舞っています。そのなかで『明智射ち』の能は近年再演されました)
秀吉はこの「褒め役」を、身分の低い役者ではなく、公家、中でも上層の人たちにさせたとあります。(なんともまぁ、傲慢なことです!)
能は静かに鑑賞するものではなくて、とても賑やかだったようです!
「褒め役」のことを、またもや石井倫子先生にお尋ねしたところ、貴重な文献でこのことを説明していただきました。
『「褒め役」の件。大永八年(1528)に伊勢貞頼が記した礼法書『宗五大双紙』には
こんな記述がみえます。
一、殿中にて能させられ候時は、必ず近江猿楽両人、田楽二三人、御前の通り
の御縁の下の白洲に敷皮を敷て伺候致し候て能をほめ申し候。
近江猿楽と田楽の「褒め役」が白洲に敷皮を敷いたところに座り、能を褒めるし
きたりがあったということがわかります。はっきりとお作法のテキストに書かれ
ているので確実ですし、それを裏付けるように、近江猿楽や田楽の役者の名前が
演者としてではなく所謂「お庭番」として記載されている資料もあります。』(ありがとうございました)
「褒め役」がしきたりになっていたとは面白いですね。しかもこの「褒め役」の「お庭番」には多大な謝礼が支払われていたようなのです。出演者と同じように謝礼が出るとは、能の公演にこの役目がいかに重要だったかということが窺えます。
では客席は、いつから今のように静かになったのかという疑問が出てきますが、このきっかけになったと思われる事件が、この本で紹介されています。(この本はブログのネタの宝庫になりそうです!)
ばかばかしく面白い事件です。
秀吉が能を舞っているときに、観世大夫が居眠りしてしまったと。
そのことが秀吉の逆鱗に触れ、この大夫は「花伝書」をはじめとする伝書を取り上げられ、謹慎という処罰を受けたとあります。
そのあたりから、能を観るときには畏まってみるという習慣が強まったとされています。
江戸時代には「褒め役」が騒ぎ立て、それをみんなが畏まってみていたのでしょうかね!?
江戸時代の能の様子、このことについても、石井先生に文献の検証をお願いしてしまいました!!
へんてこなことばかり質問して、誠に、誠に申し訳なく、恐縮しています。
おそらくこのブログの読者の方がたも、大変興味津々のことだと思います。
どうかよろしくお願いします。
これが分かれば本邦初公開、間違いなし!