前回の記事で、「通小町」の前ツレでおかしな現象があると言いました。
中入り前の詞章をもう一度載せます。
地謡「小野とはいはじ。薄生ひたる市原野辺に住む
姥ぞ。跡弔ひ給へお僧とて かき消すように失せにけり。かき消すように失せにけり」
前ツレの女・小野小町の化身は、能本の中では「市原野辺に住む
姥・・・」というように、老女の設定になっています。
しかし実際の舞台ではこの写真のように、小町の化身は若い女の姿で演じます。
これでは言葉と姿が合わず、思いっきり変です!
変なことを平気でやってしまうのも能の大きな特徴とも言えるのですが・・・・
このおかしな現象は連綿と伝承されてきて、舞台で演じるときには何の抵抗もなく、小町の化身は「姥」という言葉を無視して若い女で演じています。
能には能本(いわゆる謡本)の伝承と、型付け(演出記録)の伝承とが平行して受け継がれ、その顕著な例がこの能にたとえることが出来ます。
私がこのツレを勤めたときにも、「姥」という詞章に対する責任を感ぜずに(多少の引っかかりはありましたが)、小面をつけた若い女で、前ツレの役作りに思いをはせていました。
能本と型付けは、それぞれかたくなに伝承を守っているようです。
「市原野辺に住む姥」
これを、
「市原野辺に住む者」
とすれば、なんら問題はないのですが、600年の伝承はそれほど簡単に変えることが出来ません。
しかし昔は、前ツレの小町の化身を年老いた老女で演じていたのかもしれませんが・・・
前ツレを若い女で演じる理由として、
前ツレから後ツレまでの時間が6~7分しかありません。この間に装束を変えるには、かなりの無理があります。
またこの前ツレは、いつものように幕へ中入りせず舞台の後見座に下居し、そのままの姿で、後ツレの小町の霊として現れます。
後ツレは深草少将と百夜通いの様を演じるのですから、若い女でないとおかしいです。
後ツレに焦点をあて、前ツレはその犠牲になっているのかもしれません。
逆にこの前ツレを姥の姿で演じて、後ツレも姥のままで深草の少将と百夜通いの様を演じることは、それこそ気持ち悪く、もっともっと変です。
最近ではこの「姥」という言葉に忠実な姿で演じるという新たな試みもされています。
前ツレの小町の姿で、面を小面から、深井へ。装束は色入唐織から、色無唐織にします。
これによって若い女から中年の女に変ります。しかしこれも老女というイメージから程遠いです。より老女のイメージに近づけるために、
面は姥を使います。そのために鬘は白髪入りのものになります。(これがやっかいなのです)
そして幕に中入りして、短い時間に装束を変ます。
後ツレの小町の霊は、若い女の姿なので、
深井のときには鬘は黒いままでよかったのですが、姥の時には白髪入りのものから黒い鬘に変えなければなりません。しかも唐織も色無しから色入りのものへ変えます。短時間でこの作業をするのは大変なことで、楽屋は大忙しです。よほど装束着けになれた人でないと、なかなかうまく行きません。
このような演出をするのはごくまれで、たいていの場合前ツレは若い女で演じています。
前ツレの小町の姿における矛盾の根本的な問題は、この能の制作過程にあるようです。
この「通小町」は世阿弥を含めて4人の手によって作られたとされています。
次回はこのことに触れて見ます。
※写真は「通小町」、前ツレ柴田稔 平成17年2月17日 銕仙会例会 撮影者 東條睦子